【阿部登紹介】

【ありし日の阿部登】



 

昭和21年夏、戦地から復員した阿部登は、多摩川を見つめながら「荒廃した国土を再建するには、体力 がなければならない」と考えていた。
しかし、すべての物資が不足する時代に、どうやって体を鍛えたらいいか? 「そうだ!マラソンなら靴さえあればやれる、裸足でも走れる」とひらめいた。

翌日から毎日、多摩川堤を走り始めた。走ると同時に、職場や近所の人たちに 「一緒に走りませんか?」 「こんな時代だからこそ、みんなで一緒に走って元気を出しましょう」と呼びかけていった。

しかし、戦後の食糧不足、皆一日中お腹を空かしていた頃、餓死者さえも出ていた時代である。
「走ったら余計に腹が減ってしまう。家で寝ていた方がましだ」 という人ばかりで、誰も相手にしてくれなかった。

当時、川崎市と東京都を結ぶ、現在のガス橋付近には、雑草が生茂っていたが、ひとつ考えが浮かんだ。
その日からひとりで、何日もかけて草刈りをした。
そして、丹念に根を取り、地を耕し、サツマイモ畑を作っていった。

時間をへて。サツマイモが実った頃、再び、近所のみんなに声をかけた。

「走ったあと、ふかしイモをご馳走するから一緒に走ろう!」 この一言で、わずかに一緒に走るひとが来てくれた。
走ったあと、約束通り、サツマイモをふかしてみんなに食べてもらった。
もちろん、すべて無償である。
そのイモが結ぶ「イモづる」はその後、四方八方に伸びていった。

これが、戦後、最古級のランニンググループ誕生の瞬間である。
(「陸上競技多摩川クラブ」として正式な団体誕生は昭和23年)


クラブは急成長し、昭和20年代後半には、メンバーは150名を超え、東京のみならず、関東一縁で、単 なる陸上競技を超えた、アマチェアスポーツクラブの代表格と評価されるようになっていった。

走るのが好きで、単にひとりで走るだけなら誰でもできる。
しかし、皆が走る余裕も興味も全くなかった時代。
周囲に声をかけ、断られたら、自分で草刈りをし、耕し、サツマイモ畑を作って、収穫し、 ふかし、食べさせてまで、走る仲間をつのるような人物が、現代でもいるだろうか。

「走る素晴らしさ」超えて「みんなで走る素晴らしさ」を、
その行動力で示した阿部登。

今回、その偉業を後世に永遠に残すために、阿部登が昭和34年に誕生させた「多摩川堤マラソン大会」 に「阿部登記念」を冠として加えた。

生前の阿部登のモットーは「各人、自分の体力に応じてやること、決してムリをしないように」。

阿部登 2010年10月22日 逝去
資料 1970年(昭和45年)月刊誌「体力作り」4月号 


晩年  多摩川クラブ事務局前にて

 

多摩川クラブ創生期のころ
(前列ハチマキ姿が阿部登)

昭和30年 OB駅伝大会

三段跳びで日本人初の金メダルを
獲得した織田幹夫氏と共に

 

当時のフルマラソン世界最高記録保持者
(2時間18分51秒)
ボストンマラソン優勝者である
山田敬蔵氏と共に